エッセイ ダック・コール(カモ笛)
歳をとると無駄な回り道をしなくなるものらしい。
「れんげ菜の花この世の旅もあと少し」(時実新子)となれば、省エネこそ真の美徳である。
推理小説家を目指していると公言する友人がいる。私なんざ、
「小説を書こうとしたは五度六度」(椙本紋太)の川柳を知って以来、小説家になる夢はとんと口にしなくなった。 彼はその夢やみがたく、古今東西、名推理小説をその定着した評判を頼りに読み漁っている。いつの日か華々しくデビューする日を夢見つつ。最少時間で最大の効果を狙っている。その上、私のような中途半端なものをも巻き込みに、感想を求めてくる。
ゴキブリ型乱読者の私にとってはそれもまた貴重な情報源ではある。 彼から稲見一良という、今はもう故人である作家の『ダック・コール』なる作品を脅迫的に薦められた。年譜によれば、稲見一良(いなみいつら)は、小説家であり放送作家。記録映画のマネージメントを務める傍ら、一九六八年文芸誌の新人賞に入選、しかし多忙のため作家活動に専念しなかった。一九八五年肝臓癌の手術を受けるが全摘ができないと分かると、生きた証として小説家活動に打ち込むと周囲に宣言し、一九八九年、本格的に小説家デビュー。一九九一年『ダック・コール』にて数々の賞を受賞し期待されるも、一九九四年わずか九冊を残して癌のため没したとある。
なんと劇的ではないか。 小説家になりたいとうそぶきながら、雑文書きで終わりそうな気配濃厚な私にしてみれば極めて小癪な存在である。だいたいがへそ曲がりの私は、人の薦めた本でよいと思うものは割と少ない。しかし、一良はちがった。 稲見一良は、まさに日本のヘミングウェイであった。故人であるし作品も少ないので、私としては珍しく一気に読むのが惜しく、ていねいに読みふけった。
ワイルドライフを趣味とするハードボイルド推理小説であるが、銃器マニアックなものとはまったく違う。少年の視点や目線を取り込んだ人間臭さは、限りなく温かい。 中級のバードウォッチャーでもある私にとって、キンクロハジロ、カイツブリ、ヒドリガモ、見慣れた名前がバリバリ出てくるのもたまらなかった。
確かに時代性を感じる作品もあるが、ここに収録される短編はどれも好ましかった。 好きな作家は年代順に読んでみたくなる性癖のある私にとって、そのすべてを手に取ることが容易な作家は貴重な存在である。『男は旗』『花見川のハック』『ソー・ザップ!』『ダブルオー・バック』・・・と、アマゾンのおかげで、集中的に彼の四年間の作家生活を共有した。 どの話もそれぞれ感性的には気にいったが、やはり、『ダック・コール』『セントメリーのリボン』『猟犬探偵』が私にとってのベストスリーだった。
男の本であることは間違いないが、アウトドアの料理本でもある。パリッと皮の焼けたジャガイモ、仕留めたカモを自分のためでなく、自分と同じ時間を生きる者たちへのささやかなふるまい。ふやけたシェフのTV番組とはちがいます。 『セントメリ―のリボン』では、私の密かに愛してきた懐かしいバーボン、フォアローゼスやワイルドターキーが出てきて、喉が鳴った。
なかでも、わけありの美女に2フィンガーのバーボンを勧めると、
「フォアローゼスね?」 「あぁ」 「山のフィリップマーロウね」
たまらない会話。 院生の頃、S先生からバーボンの飲み方を教わった。ロックなどにせず、ショットグラスで生でやって、チェイサーする、恰好よく見えました。確かオールドクロウという銘柄でしたね。 就職してから職場近くの国分寺のスナックで見つけたフォアローゼスが好きだった。ワイルドターキーもよかったけど。今はもう、飲まなくなってしまったが、それでも一本だけ家に残っている。
これを機に、ロスを舞台にしたレイモンド・チャンドラーに出てくるタフな探偵フィリップ・マーロウが私の人生に再び登場。ロスの海のマーロウに対する、山の・・・ね、と評したしゃれた表現。またまた「タフでなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない」といった名台詞が蘇える。
最後にハナの面倒をみる老人リチャード。カルフォルニアの匂い、そして第二次大戦での苦労、確か日系人の苦労話は『ダックコール』にもあった。四四二日系人部隊の話。それと収容所の話は表裏。あの収容所はデンバーだった。 リチャードの作ったサンドイッチ(干しブドウ入りにかたい黒パンにスモークしたカモ肉とチーズ)、熱い紅茶と冷えたプラムジュース。村上春樹のハムサンドとビールもよく真似をしたけれど、こういう男の無骨い料理に強い憧れを感じる。マーロウのようなカッコ良さとは程遠いけれど。
二〇年前に、NYに七カ月、デンバーに一カ月、カルフォルニアに二カ月、たまたまひとりでぶらついていたあの頃の空気が、匂いが強烈に思い出され、何となくわかった気になるから不思議なもの。
よい作家、教えてもらって感謝。これが親友の親友たる所以。でも一良は一九九四年に亡くなっているのですね。この『ダックコール』が九一年。短すぎるけど、そこがまたいいんでしょうね。
一良の文に、「スポーツ選手は、選手生命の終わりとほんとうの人生の終わりの二つを経験する」という一節があった。何となく研究者としての終わりと人生の終わりとを意識し出している私にはしみる言葉です。曖昧な一定の目途で何やかや言われている出処進退のはっきりしない政治家をみると、「一定の目途が立ったらおれも逝く」なんて句が浮かんできた。
おかげで、チャンドラーの『ロング・グッドバイ』を村上春樹の訳で読みなおす羽目にもなった。「ギムレットには早すぎる」なんていうフィリップ・マーロウの決め台詞をどこかのバーで言ってみたい気分・・・
(2011.5.28 『琅』No.24)